ggggame’s diary

読書の感想や、アナデンが中心のゲーム雑記。ガバガバな考察もかいたりします。

のーたいとるで。

ふとおもいたったのでつらつらと。

自分のことが嫌いなのか好きなのか。そうおもうと、別にどうでもいいと思っています。問にたいしても、性格にたいしても。好こうが嫌おうが自分は自分でしかない、ならばどっちだっていいよね、という考え方です。

ただ大嫌いなのが、私が私という人間であるという何かしらの形式やカタにはめようとする行為。
人が個人であるがゆえに生ずるあれこれが煩わしい、透明でありたい、そう思います。
そもそも、自分という個人が存在する以上、物事を知る、見る、見抜く、という行動は個人の域をでない。見聞広めてもなお、個人が出した答えは、どこまでいってもひとつの答えでしかない。多数の答えが出せてもなお。個人が出した、その個人であるがゆえに出せた、それに因る。その一事は覆せない。その一事は免れ得ない。
私は私でありたくない。嫌いではないし、誰かになりたいわけでもない。誰かになったとして、個人というわくから逃れられるわけでもなし。
あと。
物事を一面しか見ないってこうどうが嫌いなんですよね。紙の一つさえ表裏があるのに、人というものだけはそうでないと言わんばかりにひとつにまとめようとする。なわけあるかたわけが(`Δ´)世に万感の二字があって多面が無いわけなかろうに。

愚痴だなと思ったので。まったく無関係のことをつらぁりとかきます。

士は己を知るもののために死す。
好きな言葉です。上記の後に書くことじゃないですが。
大将が知っていれば、真実を見抜こうとする目を養い、器を広げる、訓戒の言葉。
兵が知っていれば安堵して死ねる。しんだ後を託せるし、知っていることを知っていることそのものがまた信頼のひとつのかたちでもある。事実の言葉。
…ロマンあるなぁと思います(^ω^)